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『レディバード・レディバード』(1994)
監督:ケン・ローチ、UK

如何にもいわくあり気な中年男女。ふたりがカラオケ・バーで出逢う。男が“The Rose”を謳う女の姿に魅了され彼女に声をかける。やがてふたりは同居を始める。その愛に初々しさはなくいきなりうだつのあがらない雰囲気。ふたりは互いに“いわく付き”の人生を語り始める。男はパラグアイから政治亡命しイギリスに不法滞在しているという。女はそれぞれ父親が違う4人の子供を育てていたが、社会福祉局に取り上げられ失意に暮れているという。

他のケン・ローチの作品がそうであるように、この映画も華々しいところはない。政治亡命中の男と父親が違う4人の子どもを育てる女の恋愛という風変わりな設定でも、劇的な演出はされず淡々と描かれる。これがイギリスのリアリティなのだと言いた気に。設定と演出の喰い違いに戸惑うかたもいるかもしれない。でも実際に、20年前のこの作品からイギリス社会について教えられることは多い。
落ちぶれたヒロイン=マギーに「なんて無責任な母親なのだろう」と怒りを覚える人もいるだろう。しかし彼女は観る者に問いを投げかけてくる。生命を授かるとはどういうことか? 母親の愛情とは何か? そうして、やがて彼女から目が離せなくなる。
 
マギーは子どもを生んでは男を変えた。見る目はなくいつも男の暴力に怯えた。それは自分の父親と母親の関係をなぞっていた。福祉国家イギリスの事情も垣間みえる。おそらく彼女は生活保護をもらい、育児や住宅の手当を受け生活している。自己責任が叫ばれる現代日本社会の目線ではその生活は奇異に映るかもしれない。あげく、彼女が外出中に子どもを残した家で火事が起る。酷い火傷を負う男の子。社会福祉局は彼女の母親としての能力を問題視し、裁判のすえ、彼女から子どもを取り上げる。失意に暮れるマギー。でも子どもの人権=健やかに生きる権利の視点に立てば、当然の結果か。しかし冷静に考えると、マギーは癇癪持ちで経済力もないのに、何故に4人も子どもを生んだのか、その生き様と、それを許す環境に不安を覚える。でも…とさらに問う。子どもを生み育てるという行為それ自体は、どんな理由でも非難されるものではないのかもしれない。

政治亡命したと語る男=ジョージとマギーの関係は次第に安定し始める。スペイン語を母語にする彼の素朴で不器用な愛の表現は、マギーの不安定な心に届いているようにも見える。男は友人に紹介してもらい仕事も手にした。やがて、ふたりに子どもができる。ふたりで新居に引っ越す。フラットのベランダで植物を育て始める。だけれども、生まれた子どもはまたも社会福祉局に取り上げられてしまう。ジョージの不法滞在が明らかになり、フラットの隣の老人がジョージがマギーに暴力を振るっていると裁判所で証言する。ふたりの関係が疑われ、マギーの申し立ても空しく、ふたりは2度と赤児を抱くことはできない。

しかしマギーとジョージの間に2人目の子どもができる。それどころか、その後3人も子どもを授かったという(実話をもとにした映画だということだ)。ジョージの不法滞在は許され、マギーはこれまでの人生になかった平穏を手に入れただろう。ジョージの誠実さがマギーを変えた。たぶん、本当にそんな単純なことだ。しかし、それは容易なことではない。風変わりなふたりには尚更のことだ。翻って自分の周囲を考えると、見栄にまみれ、自己責任が喉を突く現代日本で純愛や、純粋な気持ちで家族を持つということが困難になっている。非常に切ないことに…。純粋な愛を育むには、どんな条件が必要なのか、そんなことを考えさせられる作品だ。









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